ため息は少しだけ、白く残ってすぐ消えた。

misuteru2008-11-25

ハローハローハロー。misuteruです。今日の写真は、SAPICA。実は、私、モニターなんですね、これが(w)Suicaみたいに、まだまだ便利…という訳じゃないですけど…乗車券という意味では、便利でエコですからね。

んでセンタープレ。まぁ、去年も比較的簡単だったから…(^^;言っても去年は洒落にならない点数だったけど…(TT)今年はやりましたvv…国語はやらかしたけど。な、なんとっっ、英語筆記で9割いったぁ。まっ…1問マークミスの恐れがあるんだけど…ね…。トータル680ちょい。センター利用で私大さっさと決めちゃって、安心して横国受けられる状況に出来るかどうか。実力はついた。あとは、自信の問題。


…今日は、ちょと思う事第一弾。僕にとっての「教師になるという事」と社会にとっての「教師の役割」。
僕と同じく、教師を目指して教育学部に進む人が沢山いる(以前のブログと多少矛盾が生じていますが黙認してください)。そんな人達から、今も昔も、よく聞く言葉がある。

「人生の先輩になりたいから。」

彼らに、僕は聞きたい。
「それなら、教師じゃなくたって、先輩にはなれるんじゃない?」
間違っているのか。僕の中で、教師という言葉の第一義は、「学問・芸術を教える人」。勿論、比喩的に使う事もある。人の動機だけ散々否定するのも、酷い奴だと思うので、それを大前提とした上で、僕が教師を目指す理由は主に二つ。

"自分が感じた数学の面白さを、学問として後進に伝えたい"
"僕が今まで感じた、「学問を学ぶ場である学校に、勉強をしたいという同じ志を持って集まった仲間との様々な楽しさ」を、生徒に味わって貰う環境作りに携わりたい"

現実、こんな綺麗ごとでは済まないと思う。それは重々承知の上で。
話を戻して、教師というのは、「教師として、学問を教える人」であり、「先輩として、人生を教える(または伝える)人」ではない。確かに教師も人である。人として、人生を教える事は重要な仕事だ。しかし、その仕事は、教師だけが果たすべき仕事ではなく、ましてや教師だけが行う仕事でもない。

実際、僕は、沢山の先生に、勉強以外の沢山の事を教わった。その中の1つに人生もある。しかしそれは、基本的には、"教わった"であり"教えられた"のではない。それは、身近な人で言えば、中学の生徒会も一高の放送局もみんな同じだと思う。ここから言えるのは、前述の「人生を教える」は、間違いという事。人生は学ぶもの、教わるもの。つまり、自分が「人生の先輩」だというのは、単なる思い込み、ただの自己満足に過ぎない。
学校の中で例をだせば、生徒が先生から人生を感じ、教わった時、生徒から見て、その先生は人生の先輩かもしれない。先生に視点を移せば、自分がその生徒の人生の先輩とは思わない。ただ、その事態を第三者的に、客観的に表現すれば、「先生が生徒に人生を伝えている」という事にはなる。

僕は、"教師として"、自分の感動を学問を通じて生徒に伝えたい。そして、"人として"、自分の周りの人に、自分の行動から何かを感じて貰いたい。
この2つが、僕の努力で完璧にシンクロする事は、ない。何故なら、肩を叩く事は出来れど、人が振り向くかどうかはその人次第。人に感じさせる努力は出来ても、人がそう感じなければ、どうしようもないという事。しかも、教師を目指す人にとって、肩を叩く事は、学問を教える事。無論、形は様々。授業であり部活であり。

長々と、自分が読み返してもわかりにくい文章だが、まとめると…職業を特定して、その身分、立場でなければ、人生を伝えられないという事は、絶対的に有り得ない。そのような道徳的な仕事を行う為に、社会的役割を利用しようとする事は間違っている。
だから、2つの反する事を混同している人に、教師になって貰いたくない。

疲れたぁ…長くなったぁ…多少の間違いご了承をm(_ _)m


今日の名言
『中央法学部受かれば、大丈夫ですよね?』
明日もガンバロウ!!